FC2ブログ

流浪星馬

エストレヤ乗りtakeの何気ない日々・・・最近は何もない日々Σ(・∀;ノ)ノ!

2007年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年06月

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

「幻世の祈り~家族狩り・第一部~」

幻世の祈り

(-_-;)ウーン・・・


一応、バイク関係のブログとして作ったんやけど・・・


何故か、読書ブログになってるなぁ(笑)


という訳で、今回は「幻世(まぼろよ)の祈り家族狩り 第一部~」~天童荒太著 新潮文庫~です


第一部というからには続きがある訳で・・・


全五部構成で出版されてます


この本、実は’95年に「家族狩り」という同名タイトルで販売されたモノを文庫化したモノなんやけど、ただ文庫化じゃなくて「家族狩り」の構想をもとに書き下ろしたモノです


’95年版は読んだコトないので、どの程度違うのか、比較は出来ません(^_^;)アハハ


この本には、3人の主人公がいます


児童相談所関係の仕事で児童心理に携わる氷崎游子(ひざき・ゆうこ)


教師という仕事に何の魅力も感じていない高校教師・巣藤浚介(すどう・しゅんすけ)


ノンキャリアの最高峰・警視庁の捜査一課長になれる器とまで言われていた刑事・馬見原光毅(まみはら・こうき)


この3人がそれぞれのストーリーの中で次第に絡みあい、社会が抱える家族の問題や闇の部分を克明に描いていく・・・


あとがきに於いて、著者がこういうコトを言っています


目の前で起きている問題と、世界で起きている悲劇とが、何かしらの回路でつながっているとしたら・・・・・各地でつらい想いをしている人の存在に無関心でいて、身近に起きている問題を、解決に導くことなど不可能ではないでしょうか。逆に、身の回りの小さな悲劇を、世界の前ではたわいのないこととして無視するのは、結局は世界にあふれる悲しみを、放置することになるのではないかと思います。そうしたことに、しっかり目を向けた上で、ではどうすれば、虚しさやはかなさにも耐え、この世界に生きてゆく価値を見出せるのか・・・・・『家族狩り』の登場人物と悩み、解決策などありえないにしても、経過報告だけでも届けたいと願ったのです。


そして、印象に残った言葉・・・


「社会性?この病んだ社会に適応することが、本当に必要ですか?」


この社会には、環境を汚す物質があふれています。それを増やす仕事のほうが優遇され、被害をこうむる弱者や動物、後世の子孫ことは、ほとんどかえりみられません。社会には暴力もあふれています。女性は日々性的な被害に遭っています。或る地域では、数秒に1人の人が殺され、或る国や地域の人々は、平和を説く神の名において、銃や爆弾や戦闘機を人々に向けています。背景のひとつに、性差別や、人種差別があります。日本においても、人種差別、職業差別、性差別が強くあります。先生方はその現実を学校で教えていらっしゃいますか。それを隠したままの教育が、どうして社会性などと口にできるでしょう。世界には飢えた子が何百万人といます。本当は世界には多くの農地があまり、食料も足りてるんです。ただ穀物や野菜の値が下がるのを嫌う少数の人のために、休耕され、食料は倉庫にしまわれて、命が犠牲にされてるんです。そのことを子どもに伝えていますか。それを隠して、社会に適応するとは、どういう意味でしょう。お答えください。」


どうして学校は、ゆがんだ道徳観や歴史を押しつけるか、おまえは考えたことがあるか。どんな立派な思想や、高邁な主義を掲げていようと、世界の国々や地域において、指導者と呼ばれている人々はみな、高級車に乗り、立派な家に住み、壇上から人々を見下ろす位置に立つ。それでいて子どもに平等という倫理、犠牲という歴史観を教えようとする。これは実はおかしいことだ。平等を訴える指導者が、自分自身や家族には、平等とはとても言えない物質を享受させ、権利を優先させる。人を見下し、ときには他人の命を楯にする。つまり、誰もが欲望に負けているということだ。誰だって、おいしいものを食べたい、楽に暮らしたい、人から大事にされたい、そして死にたくない・・・・・。しかし、その欲望は、現実には多くの他人の犠牲の上に成り立っている。


 


こういった家族や社会についての本を読んでいる最中、現実の世界でもまた少年が母親を殺すという凄惨な事件が起こった・・・


物語の中でも似たような凄惨な事件が起きる・・・


著者もいう・・・


’95年以降、はたして社会は良くなっただろうか・・・・・(略)子どもに関係してる事件、家族間の事件が目立ってきた気がします。被害者に対する想像力を欠いた、自己にとらわれた犯罪が横行し、当事者はもちろん、そのニュースにふれた人々をも傷つけています。


最後に・・・


他人と共有する時間や空間が、ひたすら疲れるようになったのは、二十世紀最後の二、三年前あたりからのように思える。子どもの頃からプライベートな時間や空間を尊重されることがあたりまえだった世代が、社会人として、人の親として、社会の中心となってきたいまの時代背景と無関係ではないのかもしれない。


この言葉が示すモノが、家族や社会の歪みとなっていることは疑いのない事実なのかもしれない・・・



スポンサーサイト

| | 23:31 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

2007年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年06月

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。